2013年7月14日日曜日

北越雪譜 初編 巻之上 1.1.18.雪吹 (ふぶき)

1.1.18.雪吹 (ふぶき)

雪吹 (ふぶき) は、 () などに積もりたる雪の風に散乱するをいう。其の状優美 (すがたやさしき) ものゆえ、花のちるを是に () して花雪吹 (はなふぶき) といいて、古哥 (こか) にもまた見えたり。是、東南寸雪 (すんせつ) の国の事也。北方丈雪 (じょうせつ) の国、我が越後の雪深きところの雪吹は、雪中の暴風 (はやて) 雪を巻騰飈 (まきあぐるつじかぜ) 也。雪中第一の難義 (なんぎ) 、これがために死する人年々也。その一ツを挙げてここに (しる) し、寸雪 (すんせつ) 雪吹 (ふぶき) のやさしきを観る人の (ため) に、丈雪 (じょうせつ) の雪吹の愕胎 (おそろしき) を示す。

() が住む塩沢 (しおさわ) に遠からざる村の農夫男 (のうふせがれ) 、一人あり、篤実 (とくじつ) にして善く親に仕う、二十二歳の冬、二里あまり隔てたる村より、十九歳の (よめ) をむかえしに、容姿 (すがた) 憎からず、生質柔従 (うまれつきやわらか) にて、糸織 (いとはた) (わざ) にも怜利 (かしこ) ければ、舅姑 (しゅうとしゅうとめ) 可愛 (かあい) がり、夫婦の中も睦ましく、家内可祝 (かないめでたく) 春をむかえ、其の年九月のはじめ安産して、しかも男子なりければ、掌中 (てのうち) (たま) を得たる心地にて、家内悦びいさみ、産婦 (さんふ) も健やかに肥立 (ひだち) 乳汁 (ちち) も一子に余るほどなれば、小児 (しょうに) も肥え太り、可賀名 (めでたきな) をつけて、千歳 (ちとせ) 寿 (ことぶき) けり。此の一家 (いっか) の者すべて篤実 (とくじつ) なれば、耕織 (こうしょく) 勤行 (よくつとめ) 小農夫 (こびゃくしょう) なれども貧しからず、善男 (よきせがれ) をもち、良娵 (よきよめ) をむかえ、好孫 (よきまご) をもうけたりとて、一 (そん) の人々常に羨みけり。かかる善人の家に、天 (わざはひ) を下ししは如何 (いかん) ぞや。

○かくて産後、日を () てのち、連日の雪も降り止み、天気穏やかなる日、 (よめ) (おっと) にむかい、今日は親里 (おやざと) へ行かんとおもう、いかにやせんという。 (しゅうと) (かたわ) らにありて、そはよき事也、 (せがれ) も行べし、実母 (ばばどの) へも孫を見せてよろこばせ、夫婦して自慢せよという。 (よめ) はうちえみつつ、 (しゅうとめ) にかくといえば、姑は俄かに土産など取そろえる (うち) に、 (よめ) 髪をゆいなどして、嗜みの衣類を (ちゃく) し、綿入 (わたいれ) 木綿帽子 (もめんぼうし) も、寒国 (かんこく) の習いとて見にくからず。 () を懐にいだき入れんとするに、 (しゅうとめ) 旁らより、よく () (のま) せていだきいれよ、 (みち) にては、ねんねがのみにくからんと、一言の (ことば) にも、孫を愛する (こころ) ぞしられける。夫は蓑笠、稿脚衣 (わらはばき) 、すんべを穿き、 [晴天にも蓑を着るは、雪中農夫の常也] 土産物 (みやげもの) を軽き荷に担い、両親 (ふたおや) に暇乞いをなし、夫婦 (たもと) をつらね、喜び (いさみ) て立ち (いで) けり。正是 (これぞ) 親子が一世の別れ、後の悲難 (なげき) とはなりけり。

○さるほどに、夫は先に立ち、妻は後にしたがいゆく、おっとつまにいう、今日は頃日 (このごろ) の日和也、よくこそおもいたちたれ、今日、夫婦孫をつれて来たるべしとは、親たちはしられ玉うまじ。孫の顔を見玉わば、さぞかしよろこび給うらん。さればに候、父翁 (とつさま) はいつぞや来たられしが、母人 (かさま) はいまだ赤子 (ねんね) を見給わざるゆえ、ことさらの喜悦 (よろこび) ならん。遅くならば一宿 (とまり) てもよからんか、 (おまえ) 宿 (とまり) 給え。不可也 (いやいや) 二人とまりなば、両親案 (おやたちあんじ) 給わん、われは (かえ) るべし。などはなしの (うち) () の啼くに乳房 (ちぶさ) くくませつつ、うちつれて道をいそぎ、美佐嶋 (みさしま) という原中に到りし時、天色倐急 (てんしよくにはか) に変り、黒雲空に覆いければ、 [是雪中の常也] 夫空を見て大いに驚怖 (おどろき) 、こは雪吹 (ふぶき) ならん。いかがはせんと踉蹡 (ためらう) うち、暴風 (はやて) 雪を吹き散らす事、巨濤 (おおなみ) の岩を越ゆるがごとく、 (つじかぜ) 雪を巻騰 (まきあげ) て、白竜 (はくりょう) (みね) に登るがごとし。朗々 (のどか) なりしも (てのひら) をかえすがごとく、天怒り地狂い、寒風は (はだえ) を貫くの (やり) 凍雪 (とうせつ) は身を射るの () 也。

夫は蓑笠を吹きとられ、妻は帽子を吹きちぎられ、髪も吹きみだされ、吐嗟 (あわや) という間に、眼、口、襟、袖はさら也、裾へも雪を吹きいれ、全身 (こごえ) 呼吸迫り半身は (すで) に雪に埋められしが、命のかぎりなれば、夫婦声をあげ、ほういほういと哭叫 (なきさけべ) ども行来
(ゆきき) の人もなく、人家にも遠ければ助くる人なく、手足凍 (こごえ) 枯木 (かれき) のごとく暴風に吹き (たおさ) れ、夫婦 (かしら) を並べて雪中に倒れ (しし) けり。此の雪吹 (ふぶき) 其の日の暮に止み、次の日は晴天なりければ、近村の者四五人此の所を通りかかりしに、かの死骸 (しがい) は雪吹に (うず) められて見えざれども、赤子 (あかご) の啼く声を雪の中にききければ、人々大いに怪しみおそれて逃げんとするも在りしが、剛気 (ごうき) の者、雪を掘りてみるに、まず女の髪の毛、雪中に顕われたり、 (さて) は昨日の雪吹倒 (ふぶきたお) れならん [里言にいふ所] とて、皆あつまりて雪を掘り、死骸を見るに、夫婦手を引きあいて死居 (ししい) たり。 () は母の懐にあり、母の袖、 () (かしら) を覆いたれば、 () は身に雪をば触れざるゆえにや、凍死 (こごえしな) ず。両親 (ふたおや) 死骸 (しがい) の中にて、又声をあげてなきけり。

雪中の死骸なれば、生けるがごとく。見知りたる者ありて夫婦なることをしり、我児 (わがこ) をいたわりて袖をおおい、夫婦手をはなさずして (しし) たる心のうち、おもいやられて、さすがの若者らも (なみだ) をおとし、 () は懐にいれ、死骸は蓑につつみ、夫の家に荷いゆきけり。かの両親 (ふたおや) は、夫婦 (よめ) の家に一宿 (とまりし) とのみおもいおりしに、死骸を見て一言の (ことば) もなく、二人が死骸にとりつき、顔にかおをおしあて、大声をあげて (なき) けるは、見るも憐れのありさま也。一人の男、懐より () をいだして、 (しゅうと) にわたしければ、悲しみと喜びと両行 (りょうこう) の涙をおとしけるとぞ。

△里言には雪吹を「ふき」という。ここには里言によらず。

雪吹 (ふぶき) の人を殺す事、大方右に類す。暖地 (だんち) の人、花の散るに比べて美賞 (びしょう) する雪吹と其の異なること、潮干 (しおい) に遊びて楽しむと、洪濤 (つなみ) (おぼれ) て苦しむとの如し。雪国の難義、暖地の人おもいはかるべし。連日の晴天も、一時に変じて雪吹となるは、雪中の常也。其の力、樹を抜き (いえ) (くじく) 。人家これが為に苦しむ事、枚挙 (あげてかぞえ) がたし。雪吹に逢いたる時は、雪を掘り身を其の内に (うず) むれば、雪暫時 (ざんじ) につもり、雪中はかえって温かなる気味 (きみ) ありて、 (かつ) 気息 (いき) を漏らし死をまぬがるる事あり。

雪中を () する人、陰嚢 (いんのう) 綿 (わた) にてつつむ事をす。しかせざれば陰嚢 (いんのう) まず (こおり) て、精気尽くる也。又凍死 (こごえしし) たるを、湯火 (とうか) をもって温むれば助かる事あれども、武火熱湯 (つよきひあつきゆ) を用うべからず。命たすかりたるのち春暖にいたれば、腫病 (はれやまい) となり。良医 (りょうい) () しがたし。凍死 (こごえしし) たるは、まず塩を (いり) て布に包み、しばしば (へそ) をあたため、稿火 (わらび) の弱きをもって次第に温むべし。助かりたるのち (やまい) を発せず [人肌 (ひとはだ) にて温むはもっともよし] 手足の (こごえ) たるも、強き湯火 (とうか) にてあたたむれば、陽気 (ようき) いたれば灼傷 (やけど) のごとく腫れ、ついに腐りて指をおとす。百薬功 (やくこう) なし。これ我が見たる所を (しる) して人に示す。

人の凍死 (こごえし) するも、手足の亀手 (かがまる) も、陰毒 (いんどく) 血脈 (けちみゃく) を塞ぐの也。俄かに湯火 (とうか) の熱を以て温むれば、人精 (じんせい) 気血 (きけつ) をたすけ、陰毒一旦に解くるといえども、全く去らず。陰は陽に勝たざるを以て陽気至れば陰毒肉に (しみ) て腐る也。寒中雨雪に歩行 (ありき) て冷えたる人、急に湯火 (とうか) を用うべからず。 (おのれ) 人熱 (じんねつ) の温かならしむるをまって用うべし。長生 (ちょうせい) の一 (じゅつ) なり。



北越雪譜18


註:
・よく乳(ち)を呑(のま)せて: 初版では、呑(のま)「ま」が判別不能。改訂版で「ま」と特定。

・ずんべ: 初版では「ずんべ」改訂版では「すんべ」
・悲難(なげき): 初版も改訂版も、悲難「難」の字を当てるが、岩波のみ「歎」の字を当てる。
・飈(つじかぜ): 本文では、(つちかぜ)「ち」濁点なし。
また、(つぢかぜ)は誤り、(つじかぜ)と表記すべき。

・吐嗟(あわや): 初版も改訂版も、吐嗟「吐」の字を当てるが、岩波のみ「咄」の字を当てる。咄嗟(とっさ)の誤字としたのだろうか。しかし、吐嗟(あわや)(あなや)と使われる例は散見できる。

・凍死(こごえしな)ず: 本文では、(こゝえしな)「ゝ」濁点なし。

・△里言には雪吹を「ふき」という・・・: 改訂版のみにある。岩波にもなし。

・雪吹(ふぶき)の人を殺す事、: 本文では、(ふゝき)「ゝ」濁点なし。
・溺(おぼれ)て: 本文では、(おほれて)「ほ」濁点なし。
・凍死(こごえしし)たるは、まず: 本文では、(こゝえしゝ)「ゝ」濁点なし。

参照リンク:
私の北越雪譜 吹雪(ふぶき)


単純翻刻

○雪吹(ふゞき)

雪吹(ふゞき)は樹(き)などに積(つも)りたる雪の風に散乱(さんらん)するをいふ其状優美(そのすがたやさしき)ものゆゑ花のちるを是に比(ひ)して花雪吹(はなふゞき)といひて古哥(こか)にもまた見えたり是(これ)東南寸雪(すんせつ)の国の事也北方丈雪(ぢやうせつ)の国我が越後の雪深(ふかき)ところの雪吹は雪中の暴風(はやて)雪を巻騰飈(まきあぐるつぢかぜ)也雪中第一の難義(なんぎ)これがために死する人年々也その一ツを挙(あげ)てこゝに記(しる)し寸雪(すんせつ)の雪吹(ふゞき)のやさしきを観(みる)人の為(ため)に丈雪(ぢやうせつ)の雪吹の愕胎(おそろしき)を示(しめ)す
余(よ)が住(すむ)塩沢(しほさは)に遠(とほ)からざる村の農夫男(のうふせがれ)一人あり篤実(とくじつ)にして善親(よくおや)に仕(つか)ふ廿二歳の冬二里あまり隔(へだて)たる村より十九歳の娵(よめ)をむかへしに容姿(すがた)憎(にく)からず生質柔従(うまれつきやはらか)にて糸織(いとはた)の伎(わざ)にも怜利(かしこ)ければ舅姑(しうとしうとめ)も可愛(かあい)がり夫婦(ふうふ)の中も睦(むつまし)く家内可[祝](かないめでたく)春をむかへ其年九月のはじめ安産(あんざん)してしかも男子なりければ掌中(てのうち)に珠(たま)を得(え)たる心地(こゝち)にて家内(かない)悦(よろこ)びいさみ産婦(さんふ)も健(すこやか)に肥立(ひだち)乳汁(ちゝ)も一子に余(あま)るほどなれば小児(せうに)も肥太(こえふと)り可賀名(めでたきな)をつけて千歳(ちとせ)を寿(ことぶき)けり此一家(このいつか)の者(もの)すべて篤実(とくじつ)なれば耕織(かうしよく)を勤行(よくつとめ)小農夫(こびやくしやう)なれども貧(まづし)からず善男(よきせがれ)をもち良娵(よきよめ)をむかへ好孫(よきまご)をまうけたりとて一村(そん)の人々常(つね)に羨(うらやみ)けりかゝる善人(ぜんにん)の家(いへ)に天災(わざはひ)を下(くだ)ししは如何(いかん)ぞや○かくて産後(さんご)日を歴(へ)てのち連日(れんじつ)の雪も降止(ふりやみ)天気穏(おだやか)なる日娵(よめ)夫(をつと)にむかひ今日(けふ)は親里(おやざと)へ行(ゆか)んとおもふいかにやせんといふ舅(しうと)旁(かたはら)にありてそはよき事也男(せがれ)も行べし実母(ばゝどの)へも孫(まご)を見せてよろこばせ夫婦(ふうふ)して自慢(じまん)せよといふ娵(よめ)はうちゑみつゝ姑(しうとめ)にかくといへば姑は俄(にはか)に土産(みやげ)など取そろへる間(うち)に娵(よめ)髪(かみ)をゆひなどして嗜(たしなみ)の衣類(いるゐ)を着(ちやく)し綿入(わたいれ)の木綿帽子(もめんばうし)も寒国(かんこく)の習(ならひ)とて見にくからず児(こ)を懐(ふところ)にいだき入んとするに姑(しうとめ)旁(かたはら)よりよく乳(ち)を呑(の[ま])せていだきいれよ途(みち)にてはねんねがのみにくからんと一言(ひとこと)の詞(ことば)にも孫(まご)を愛(あい)する情(こゝろ)ぞしられける夫(をつと)は蓑笠(みのかさ)稿脚衣(わらはゞき)ずんべを穿(はき) [晴天(せいてん)にも蓑(みの)を着(きる)は雪中農夫(のうふ)の常也] 土産物(みやげもの)を軽荷(かるきに)に担(にな)ひ両親(ふたおや)に暇乞(いとまごひ)をなし夫婦袂(ふうふたもと)をつらね喜躍(よろこびいさみ)て立出(たちいで)けり正是親子(これぞおやこ)が一世(いつせ)の別(わか)れ後(のち)の悲難(なげき)とはなりけり○さるほどに夫(をつと)は先(さき)に立妻(つま)は後(あと)にしたがひゆくをつとつまにいふ今日(けふ)は頃日(このごろ)の日和(ひより)也よくこそおもひたちたれ今日夫婦孫(けふふうふまご)をつれて来(きた)るべしとは親(おや)たちはしられ玉ふまじ孫(まご)の顔(かほ)を見玉はゞさぞかしよろこび給ふらんさればに候父翁(とつさま)はいつぞや来(きた)られしが母人(かさま)はいまだ赤子(ねんね)を見給はざるゆゑことさらの喜悦(よろこび)ならん遅(おそく)ならば一宿(とまり)てもよからんか郎(おまへ)も宿(とまり)給へ不可也(いや/\)二人とまりなば両親案(おやたちあんじ)給はんわれは皈(かへる)べしなどはなしの間(うち)児(こ)の啼(なく)に乳房(ちぶさ)くゝませつゝうちつれて道をいそぎ美佐嶋(みさしま)といふ原中に到(いたり)し時天色倐急(てんしよくにはか)に変(かは)り黒雲空(くろくもそら)に覆(おほ)ひければ [是雪中の常也] 夫(をつと)空(そら)を見て大に驚怖(おどろき)こは雪吹(ふゞき)ならんいかゞはせんと踉蹡(ためらふ)うち暴風(はやて)雪を吹散(ふきちらす)事巨濤(おほなみ)の岩(いは)を越(こゆ)るがごとく飈(つちかぜ)雪を巻騰(まきあげ)て白竜峯(はくりやうみね)に登(のぼる)がごとし朗々(のどか)なりしも掌(てのひら)をかへすがごとく天(てん)怒(いかり)地(ち)狂(くるひ)寒風は肌(はだへ)を貫(つらぬく)の鎗(やり)凍雪(とうせつ)は身(み)を射(いる)の箭(や)也夫(をつと)は蓑笠(みのかさ)を吹とられ妻(つま)は帽子(ばうし)を吹(ふき)ちぎられ髪(かみ)も吹みだされ吐嗟(あはや)といふ間(ま)に眼口襟袖(めくちゑりそで)はさら也裾(すそ)へも雪を吹いれ全身凍(ぜんしんこゞえ)呼吸迫(こきうせま)り半身(はんしん)は已(すで)に雪に埋(う)められしが命(いのち)のかぎりなれば夫婦(ふうふ)声(こゑ)をあげほうい/\と哭叫(なきさけべ)ども行来(ゆきゝ)の人もなく人家(じんか)にも遠(とほ)ければ助(たすく)る人なく手足凍(こゞへ)て枯木(かれき)のごとく暴風(ばうふう)に吹僵(ふきたふさ)れ夫婦(ふうふ)頭(かしら)を並(ならべ)て雪中に倒(たふ)れ死(しゝ)けり此雪吹(ふゞき)其日の暮(くれ)に止(やみ)次日(つぎのひ)は晴天(せいてん)なりければ近村(きんそん)の者四五人此所を通(とほ)りかゝりしにかの死骸(しがい)は雪吹(ふゞき)に埋(うづめ)られて見えざれども赤子(あかご)の啼声(なくこゑ)を雪の中にきゝければ人々大に怪(あやし)みおそれて逃(にげ)んとするも在(あり)しが剛気(がうき)の者雪を掘(ほり)てみるにまづ女の髪(かみ)の毛(け)雪中に顕(あらはれ)たり扨(さて)は昨日(きのふ)の雪吹倒(ふゞきたふ)れならん [里言にいふ所] とて皆あつまりて雪を掘(ほり)死骸(しがい)を見るに夫婦手(ふうふて)を引(ひき)あひて死居(しゝゐ)たり児(こ)は母の懐(ふところ)にあり母の袖児(こ)の頭(かしら)を覆(おほ)ひたれば児(こ)は身(み)に雪をば触(ふれ)ざるゆゑにや凍死(こゝえしな)ず両親(ふたおや)の死骸(しがい)の中にて又声(こゑ)をあげてなきけり雪中の死骸(しがい)なれば生(いけ)るがごとく見知(みしり)たる者ありて夫婦(ふうふ)なることをしり我児(わがこ)をいたはりて袖をおほひ夫婦手をはなさずして死(しゝ)たる心のうちおもひやられてさすがの若者(わかもの)らも泪(なみだ)をおとし児(こ)は懐(ふところ)にいれ死骸(しがい)は蓑(みの)につゝみ夫(をつと)の家(いへ)に荷(にな)ひゆきけりかの両親(ふたおや)は夫婦娵(よめ)の家に一宿(とまりし)とのみおもひをりしに死骸(しがい)を見て一言(ひとこと)の詞(ことば)もなく二人(ふたり)が死骸(しがい)にとりつき顔(かほ)にかほをおしあて大声(こゑ)をあげて哭(なき)けるは見るも憐(あはれ)のありさま也一人の男懐(ふところ)より児(こ)をいだして姑(しうと)にわたしければ悲(かなしみ)と喜(よろこび)と両行(りやうかう)の涙(なみだ)をおとしけるとぞ  △里言には雪吹を「ふき」といふこゝには里言によらず
雪吹(ふゝき)の人を殺(ころ)す事大方右に類(るゐ)す暖地(だんち)の人花の散(ちる)に比(くらべ)て美賞(びしやう)する雪吹(ふゞき)と其異(ことなる)こと潮干(しほひ)に遊(あそ)びて楽(たのしむ)と洪濤(つなみ)に溺(おほれ)て苦(くるしむ)との如(ごと)し雪国の難義(なんぎ)暖地(だんち)の人おもひはかるべし連日(れんじつ)の晴天(せいてん)も一時に変(へん)じて雪吹となるは雪中の常也其力(ちから)樹(き)を抜(ぬき)屋(いへ)を折(くじく)人家これが為(ため)に苦(くるし)む事枚挙(あげてかぞへ)がたし雪吹に逢(あひ)たる時は雪を掘(ほり)身を其内に埋(うづむ)れば雪暫時(ざんじ)につもり雪中はかへつて温(あたゝか)なる気味(きみ)ありて且(かつ)気息(いき)を漏(もら)し死をまぬがるゝ事あり雪中を歩(ほ)する人陰嚢(いんのう)を綿(わた)にてつゝむ事をすしかせざれば陰嚢(いんのう)まづ凍(こほり)て精気尽(せいきつく)る也又凍死(こゞえしゝ)たるを湯火(たうくわ)をもつて温(あたゝむ)れば助(たすか)る事あれども武火熱湯(つよきひあつきゆ)を用(もち)ふべからず命(いのち)たすかりたるのち春暖(しゆんだん)にいたれば腫病(はれやまひ)となり良医(りやうい)も治(ぢ)しがたし凍死(こゝえしゝ)たるはまづ塩(しほ)を熬(いり)て布(ぬの)に包(つゝみ)しば/\臍(へそ)をあたゝめ稿火(わらび)の弱(よわき)をもつて次第(しだい)に温(あたゝむ)べし助(たすか)りたるのち病(やまひ)を発(はつ)せず [人肌(ひとはだ)にて温(あたゝ)むはもつともよし] 手足(てあし)の凍(こゞえ)たるも強(つよ)き湯火(たうくわ)にてあたゝむれば陽気(やうき)いたれば灼傷(やけど)のごとく腫(はれ)つひに腐(くさり)て指(ゆび)をおとす百薬功(やくこう)なしこれ我(わ)が見たる所を記(しる)して人に示(しめ)す人の凍死(こゞえし)するも手足の亀手(かゞまる)も陰毒(いんどく)の血脈(けちみやく)を塞(ふさ)ぐの也俄(にはか)に湯火(たうくわ)の熱(ねつ)を以て温(あたゝむ)れば人精(じんせい)の気血(きけつ)をたすけ陰毒一旦(いんどくいつたん)に解(とく)るといへども全(まつた)く去(さら)ず陰(いん)は陽(やう)に勝(かた)ざるを以て陽気(やうき)至(いたれ)ば陰毒肉(いんどくにく)に暈(しみ)て腐(くさる)也寒中雨雪(うせつ)に歩行(ありき)て冷(ひえ)たる人急(きふ)に湯火(たうくわ)を用(もち)ふべからず己(おのれ)が人熱(じんねつ)の温(あたゝか)ならしむるをまつて用ふべし長生(ちやうせい)の一術(じゆつ)なり

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