2013年7月20日土曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 01.牧之と馬琴及び京山

随筆春城六種

市島謙吉
早稲田大学出版部
昭和2

第三 図書その折々

     五 北越雪譜の出版さるゝまで

   一 牧之と馬琴及び京山

 雪の越後を初めて全国に紹介した好著として「北越雪譜」の名は其頃中央の読書界に喧伝したもので、郷国の人は今に至つて尚ほ此書を珍重して居るが、殊に此書に関係したものが曲亭馬琴、山東京伝、同じく京山といふ如き当時一流の小説作家であつた点からも、一層世上に著聞したものである。自分は曾て郷里越後の南魚沼郡塩沢村の鈴木家から此書の著者たる先代の鈴木牧之が江戸の戯作者山東京山と往復した書簡集を借り受けて一覧したことがあるが、京山は半紙の罫線に手紙を書くのが例であつたものと見え、往復書簡の全部が罫紙に書かれてあつて、それを綴つた冊子が二冊出来て居る。何れも百五十枚許りを綴つてあるから二冊で三百枚近い大冊であるが、それを読むとなか/\面白い上に、「北越雪譜」の出版になるまでの経路が、至つて細かに書かれてあるから、雪譜編纂の小史とも見るべきものである。又単にそれのみでなく、牧之の事や京山自身の事、其他種々なる事柄が此書簡中に現はれてゐるので、自分は覚えず湧然たる興味に浸ることが出来た。そこでこれらの書簡を通じて窺ひ得た雪譜編纂当時の経緯(いきさつ)を中心に、此両人の友情や性格などに就て感じた所を叙して見よう。

 鈴木牧之は天保の末頃まで在世した人で、生地の越後南魚沼郡は郷人一般の知る如く雪で名高い北越の中にも特に雪の深い土地で、若しも越後に就て問はんとすれば、此地方の人をして答へしむるが最も適任といはねばならぬ。牧之はたま/\斯うした雪深い中に生れた。そして家には相当の資産も有し、又幼少から文芸に志があつて詩も賦する、狂歌も詠ずる、俳句も作れば画もかくといふ、多才多芸の人であつた。既に文字に因縁深く文芸に嗜み浅からぬ当時の豪家としては、自ら吟詠して楽しむといふばかりでなく、更に遠近同好の士と文墨上の交りを訂するといふことは、全く自然の傾向であつた。牧之が夙に江戸の文人と書簡の往復によつて風流の交際を続けてゐたのも、要するに斯ういふ欲求に其端を発したものと思はれる。

 所謂る文学が媒となつて、牧之は馬琴にも交はり、京山にも交はつた。其他当時江戸で著名な文士雅客とも書状の往復で多く交際のあつたことは、鈴木家に蔵する書簡に徴しても首肯されて、其交遊の広かつたことに驚かされる。而もこれら多くの文人中に、最も交際を長く続け且つ親密であつたものは馬琴、京山の両人で、此両人に対しては親族以上にも親しかつたものらしい。

 一年に何回といふ不便不自由を極めた当時の飛脚便によつて手紙の往復を続けたのであるが、双方から発する一通の手紙が、何れも半紙罫紙十枚位に亘つて居て、殆ど相対して歓談して居るかの如くに、時には文芸上の事計りでなく一家の私事についても隔てなく通信し合つてゐたのである。

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