2013年7月21日日曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 02.京伝馬琴約を果さず

   二 京伝馬琴約を果さず

 牧之が「北越雪譜」を世に公けにせんと志すに至つた動機は、当時江戸に於ける作者と交際があつたからにも因るであらうが、彼れは敢て著作家でこそなけれ、自分で画も描けば相当文章も作れる人で、且つ郷国の雪に興味を感じてゐた所から、何とかして全国に第一位を占むる郷里の雪を、江戸を始め九州辺の雪の多く積らぬ国に住む人達へ知らせたい。殊に雪国特有の風俗習慣、さては用具までも全国に紹介して見たいといふ考を起して、爾来其実現に努めたのであつた。

 京山の兄で、馬琴の師に当る京伝と、牧之との関係は如何といふに、牧之が抑々第一に「北越雪譜」の著作を依頼したのが京伝であつた。其間の消息は委しく知らぬが、著作に経験なき牧之は、京伝の如き文名を世に馳せてゐる著作家に嘱し、之に材料を与へて代筆を乞ひ、江湖に其書を流布しようと謀つたのであらう。此想像は、後に馬琴に対しても京山に対しても自分の草稿をその儘出版して呉れと頼んだわけでなく、材料は牧之から提供する、執筆は著作者に任せるといふことになつてゐる点から考へても、必ず誤つた観察ではあるまいと思ふ、即ち京伝にも矢張り此形式で委嘱したものと推断してよからう。

 牧之が「北越雪譜」の著作を京伝に頼んだ時には、まだ玉山といふ高名な画家も存命であつた。玉山は浮世絵師で、曾ては「太閤記」の画をかいたので頗る名声を博した人である。尤も其「太閤記」は常時徳川氏の忌諱に触れて、絶版となつたのであるが、其為めに却つて玉山が世に持て囃さるゝことにもなつた。又鈴木芙蓉といふ画家も居た。俗に木芙蓉(もくふよう)[鈴木の木を取つた略称]とも呼ばれた人で、これが又越後へ遊んだことのある関係から、牧之はこれにも画を託しようとした。即ち文章は京伝に、画は玉山、芙蓉に嘱せんとする段取であつた。これが抑々牧之が雪譜を世に出さんと謀つた発端である。

 ところが京伝も机の上の甚だ多忙な作者である。受け込みはしたが、遂に果すことが出来ないうちに歿してしまつた。そこで一時は画家の玉山に画と共に文章をも頼まうと考へた。これは玉山が才気ある男で文章の素養にも乏しくなかつたからであるが、此事は馬琴にも相談をしたものと見えて、文政五年五月十七日付の馬琴の書簡で、此間の消息を知ることが出来る。しかし其うちに玉山も芙蓉も亦地下の人となつたので、更に当時江戸に於て戯作者中第一の学者として名のあつた曲亭馬琴に著作を託した。馬琴も無論自己の手で之を版にしたい意はあつたらしいが、これも机上の多忙な作者で、幾年経つても其約を果さない。兎角するうちに牧之も追々老年となる。馬琴は牧之より年長だから益々老いて行くので、幾ど絶望状態に陥つたのである。ところへ偶々京山から、この雪の話は曾て亡兄京伝へ御依頼になつた縁故もあるから、一つ私にその材料を遣はされたい。自分の考では絵草紙様の物にして、越後の雪の驚くべき面白い話を世に紹介して見たいといふ事を牧之の許まで云うて来た。京山の意では、牧之からは唯だ材料を得て本は自分の著作にして世に出したい考であつたらしい。然るに当時は馬琴と牧之との間にまだ手が切れて居なかつたので、どうも似た様なものを出させるといふことは馬琴に対しての遠慮もあつて、牧之は京山の此申込を一応は断つたのであるが、さりとて馬琴に嘱して置いても何時出来る事か、亡羊の歎に堪へぬわけで、寧ろ之と手を切つて京山をして代らしめるが捷径だと考へたので、断然馬琴と絶縁して京山に之を託することに決した。

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