2013年7月21日日曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 03.上梓までに三十年

   三 上梓までに三十年

 抑々京山が最初牧之に草双紙(くさざうし)としての著作を申込んだのは文政の頃で、いよ/\馬琴とは手が切れて京山自身の著作に移つたのは天保に入つてからの事であつた。そして天保七年、越えて八年に至つて漸く前編が出来た。勿論全部京山の著作に成つたのではあるが、それを京山の自著とせず牧之の著作で京山は唯だ代筆したに過ぎぬ事にして世に公けにされた。詳しく云へば序文から中に収められた詩、歌、俳句の類に至るまで大抵京山の代筆したもので、名義丈けを牧之の名にして出版したに止まつて居る。こんな訳で牧之積年の宿志は京山によつて始めて達することが出来た。今は正確に調べても居らぬが、なんでも牧之がこの志を起し、そして宿志を達する迄には、少なくとも三十年の年月を要したと聞いてゐる。京伝----馬琴-----京山を経て、兎も角前編の脱稿出版されたのが牧之六十七歳の時であるから、如何にも永い歳月を費したもので、一の著述をするにしても当時はなか/\容易でなかつた消息が、これによつても察せらるゝ。

 牧之はこれが為めに幾度も/\同じ図と同じ文章とを書き送つた。最初京伝に頼む時に送つた草稿は、火災で焼いてしまつた [尤も之はズツト後に至つて火災から免かれたのを発見したが、此時は焼亡したと信じられてゐたのである] といふので、其後馬琴に依頼する時には、再び同じ草稿を書いた。此草稿は何故か馬琴は事に託して返却しなかつたといふ。牧之は斯うして何度も草稿を書き直す労を取つた上に、尚ほそれが上梓さるゝ迄の間に起つた種々苦心の跡については追々と叙述する積りであるが、兎も角も「北越雪譜」の出版は全く大成功を収めたのであつた。此成功は筆者京山の努力によることは無論であるが、一には当時雪譜のまだ出版されない前から、早く評判されて新刊物の番付に小結の地位を占めたといふやうな事にも因つた。如何に前景気がよかつたかは此一事でも知ることが出来る。これは勿論京山が如才なく種々なる広告法を行つた結果で、其一端を云へば「北越雪譜」の著者としての牧之の名を予め出版界へ弘めさせる意味に於て、或は自分のいろ/\の出版物に京山の代筆で牧之の序文を掲げて見たり、或は牧之の詩歌を載せて見たり、美人の錦絵にまで牧之の名で狂歌を掲げるといふ如く、鈴木牧之と「北越雪譜」、この二つの名を弘めることに甚だ努めたのであつた。

 京山は出版界の情偽に深く通じてゐた。随つて読者の心理作用なるものを十分に会得し、人心に投ずるやうに巧みに趣向を考へたものである。其結果は「北越雪譜」は非常に広く世に行はれた。其結果は単に越後の雪ばかりでなく、それに付帯した越後の風俗習慣を世の中に始めて此書が伝へたのである。凡そ越後文人の文芸的著書で古来全国にひろがつた点に於て、此「北越雪譜」に匹敵するものはなからう。越後の物で全国に評判されたものは、越後の「七不思議」などではなくて、実際此書を推すべきである。雪は全国中何れの地方にも多少は降るが、而かも越後魚沼深山の堆雪、殆ど山岳の如きを見るに至つては、七不思議以上に之を奇とせねばならぬ。果して「北越雪譜」は一種の奇書として、奥羽の端から西国の果までも盛んに売れた。江戸に於ても幾百軒の貸本屋全部が、此書幾部かを備へ置くにあらざれば営業の出来なかつた程であつた。これは全く其話に大なる趣味があつたからである。雪譜の為めに幾ど一生を捧げた牧之の苦心も、斯くして酬いられたと云うてもよからう。それに当時江戸の出版界では、前編を出して見て余程の好評を博するのでなければ後編は出し得ないことになつてゐた。それが「北越雪譜」は前編天地人を出して、間もなく後編春夏秋冬の四冊を出版したに微しても、いかに此書が出版界に持て囃され読書界に歓迎されたかの一端を知ることが出来よう。



註:
情偽 (じょうぎ): 真と偽り。

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