2013年7月27日土曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 14.京山の馬琴訪問

   一四 京山の馬琴訪問

 京山が牧之に与へた同じ書状の中に、馬琴に関する一齣がある。
馬琴が台所蕭然たらんとて御憐察御厚情也、平日自重いたさぬ謙徳の人ならば書画会でもすゝめ、幸によりては四五十金は得可申候へ共、老鳶喬木に款立(原字不明)して人を燕雀にする気質故、これらの事すゝめもしがたく、又平日人に交はらぬ人ゆゑ、書画会の五十金は千文万戸へ腰をかゞめねばならず、今更左様にもなるまじ、嗚呼悲い哉今日(菊月二十五日)菅神へ参詣之帰るさ馬琴を訪ひ候処、もはや明き家也、飯田町へつぼみ候事と存候、塀より見やる庭前の紅葉ばかりが時知り顔にくれなゐを示したるを見て悲涙一滴せり

  あるじなき明家の庭に錦して紅葉(此間文字不明)照りまさりけり
  明き家のかどに空荷のつなぎ馬琴は隣りにかきならしけり
  住みすてしあるじ尋ねて此頃に逢ひ瀧澤が宿札のあと

など思ひつゞけ宿帰り申候
京山は牧之から頼りに馬琴を訪ねるやうに勧められ、始めて訪問して見ると、空家になつて居たと知らせ来た書簡である。其時分馬琴は湯島に居たので、京山は湯島天神へ参詣の序(ついで)に訪づれたものと見える。併し空家と見たのは京山の間違で、門札がとつてあつて、戸がしまつてゐた為に、始めて訪問した京山は馬琴が家計不如意の為め遣り切れなくなつて転宅したものと早呑込をしたものであらうが、実は後に掲げる書簡にもある如く、馬琴は矢張りまだそこに住んでゐたのであつた。

 然るに京山が馬琴を訪づれた日に宅へ帰つて見ると、馬琴から牧之へ宛てた書状が到着してゐた。此時分は京山の方が馬琴よりも「北越雪譜」の関係で牧之と書信の往復を重ねてゐたので、その事は京山の書簡中にも見えてゐる。京山は此書状に就てフト考へたのは、書状は牧之宛であるが、之を開封したならば馬琴の消息が知れようと感じたのである。ところで茲に書くべきことは、牧之は予て京山に対して馬琴からの書状は開封苦しからずと云ふことを許してあつたものらしい。その事も亦京山の書状中にチラホラ見えてゐる。其わけは、察するに馬琴の書状が越後へ届いて、それを牧之が見て、そして其中に認められてある事を更に江戸へ報じて来るといふ事になると、其間大変な日子を要し、時に甚だ遅れることもあるので、便宜上先づ開封してよろしいといふことにしたのであらう。そこで京山は開封して読んだのであるが、当時京山から牧之に宛てた書中には左の如く書いてある。
翁への返書とて懐中より出し候ゆゑに馬翁が身の上のことも此書にあらんと存じ、且つは兼々御差図にまかせ内見して御届け申候、是より馬琴の書簡を見んとて先づ筆を此処にとどむ


註:
老鳶(ろうえん)
帰るさ: 帰る時。

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