2013年7月29日月曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 17.父子相携へて越後へ

    一七 父子相携へて越後へ

 京山書簡集の最後に、天保七年五月発の書状がある。これはいよ/\江戸発足に近づいた場合の書状で、その中には左の如く書かれてある。
此度旅行は御本丸御数奇屋組頭野村休成内岩瀬理一郎と申先触れにて旅行仕候(右は私茶道の師也)
江戸発足より七泊りにて御地へ着の心得也
先触れは塩沢留りに可致候(発足前日にも先触れ出し可申と存候)
此書簡は即ち先触れ、問屋帳などを説明してゐる。元来京山は茶人であつて、自分の家にも釜をかけて幾何かの弟子をとつて居た位で、この書簡に幕府の茶の役人の門人であると書いてあるのは其故である。岩瀬理一郎といふのは京山自身のことで、京山は又百樹(もゝき)とも称した。さて此の茶の御役人は石州流の茶人であるから、京山も亦石州流であつたことは云ふ迄もない。兎に角四十年の交りで、交通は頻々とやつてゐたが、まだ一度も顔を見たこともない其人と、手を把つて互に談ずるのも近きにある事を喜んでゐる様子が此書簡には躍如としてゐる。

 斯うして京山は遂に約を履んで天保七年夏、子息京水を伴うてはる/゛\塩沢迄下つて、草鞋を鈴木家に解いたのであつた。そして漸く出来た「北越雪譜」----恐らくこれはまだ板に彫刻した丈けの校正刷を、仮綴にしたものであらうが----を、待ちこがれてゐた牧之に土産として贈つたことゝ思はれるし、之を受けた牧之の喜びは実に喩へるに物がない位であつたと察せらるゝ。何にしても牧之が雪譜著作の考を起して京伝に嘱して以来、三十年の星霜を経てヤツトの事で出来たのであるから、その喜悦はまつたく想察するに余りある。

 さて京山といふ男も、兄京伝の関係から慾徳をはなれて全然好意的に此著述をなし、且つ詩歌俳句までも悉く代作をしてあるのに、何処までも牧之の著として世に出したことも矢張り好意の一つである。尚ほ其人の著作であるから、どこ迄も其人の意に副はねばならぬといふ所から、細大となく牧之に相談した。従つてその往復書簡は実に沢山のものである。

何れにしても著作には経験のない田舎風流人の牧之の事であるから、種々なる注文難題が書簡の折々に云はれてあるのを、京山は又少しもそれをうるさがらずに、云うて来た事柄について、改むべきは直ちに改め、又牧之の云ふ事が誤つて居る事は懇切に説明して、毫末も倨傲の気を示さず、牧之をして快く納得せしめ、そして此一篇の「北越雪譜」が出来上つた。斯う考へると多年に亘る京山の心労を察すべきで、若し京山が勝手に書く自著であつたら、恐らく五年もかゝるものを半年位でサツサト書き上げてしまつたであらう。

それをば幾んど雪譜の原稿にも近い程の紙数の書簡を積んで、しば/\往復を重ねたといふことは、他の文人達のなし能はざる所を為したといはねばならぬ。且つ越後の地を曾て踏んだこともなく、越後人でも雪の薄い地方のものは想像も及ばぬ大雪の有様を余り間違もなく、さながら越人の写実的に書いたものであるかの如くに現はし得たのは、畢竟細目に亘つて非常に煩はしい往復を重ねた結果で、雪譜が江戸の人の手に成つたにも拘はらず、それが全く土地の人牧之の筆に成つた如く見えるといふのは、京山勉強の力によるといふべきである。

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