2013年7月29日月曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 18.牧之の中風再発

   一八 牧之の中風再発

「北越雪譜」に収めてある幾多の書は、最初の計画では国貞(くにさだ)といふ浮世絵師に書かせる筈であつたが、それが捗取らぬ為め僅に記(しるシ)ばかりに此の人の描いたものが載せられてある。その他の大部分は京山の息子京水で、父親の傍らに在つてその指図のまに/\筆を執るから、画と草稿としつくり合つてゐる。一軒の家に文章を書くものと画をかくものとが揃つて居るなどは希有の事で、雪譜成功の一原因は確に此処にもあると云ひ得るのである。

京山の書簡はすべて罫紙に書かれてゐて、之を集めれば直ちに冊子になるやうな体裁になつて居るから、百四十五枚宛を綴ぢて大きな厚い二冊の本に仕立てゝある。而して其巻端に牧之が「児孫に示す」と題書して、京山との交際、雪譜編纂の始末を叙して居る。但しこれは兼て牧之が中風の気があつたところ、恰も京山が越後の塩沢へ訪ねて行つた時に又復それが再発して、折角珍客の来たのを家に留め置き、自分は三週間ばかりどこかの湯治場へ出かけ、それから中風がだん/\重くなつて余程不自由になつた。その後書簡を冊子に綴り、まはらぬ筆を強ひて書いたものであるが、その文を読んで見ても大部分の意味はわかる。一寸文章の通じない所もあるが、なるべく意味を取違へぬやうに自分で補つて、聊か筆も加へた上、左にそれを掲げよう。
  児孫に示す

山東庵京山は涼仙と号し通称は岩瀬理一郎、故人京伝之舎弟にて、兄五十余歳、急病にて物故、実子なき為め其跡を受く、京山子、青山候之近侍たりし時武芸を好み其修養あり、又篆刻をも能くせり、而して山東庵一流の戯作をなして世を渡る、余此兄弟と魚雁往来すること四十年、余が一生の志願は北越雪譜を著して普く海内に流布せんとするに在り、初め雪画と説とを京伝に寄せ、余の為めに一書を著さん事を託し、京伝も諾し、絵は玉山、芙蓉に託し、これも諾したるに、皆前後して黄泉の客となり、志願行届かず、其後馬琴翁と交はる事深ければ之に託することゝなり、翁は越後雪譜の表題を撰び、玄同放言に掲示迄しながら机上の耕生活世話数とて徒らに星霜を重ね、馬翁もはや六十の坂を四ツ越し居れば成功覚束なく、依て之を断り、更に京山に託せし所、いとたやすく引請、剰へ余が著述名義にて聊かの謝金にて引請、開板前より江戸に評判立ち、近年の著述番付の小結びの地位を占むるに至りたるは偏に京山の取計らひによる事也、馬翁も後悔して京山を誹謗し悪口を申越したれど、余は京山に忍耐を説き、しばらく馬翁を訪はしめたり、京山も兄以来の旧交を忘れず遠路を意とせず、ことし天保七年五月廿日余り、机上の耕を廃し子息京水を伴ひ尋ね来り、積る話に日の移るを知らず、水無月半ばかりにして自分の中風発し、三廻りの入浴を要する為め留守之饗応を牧山に託したり、余が病は其後漸く重く、京山滞留六十日に及び、京山善光寺を廻り帰府せり、実に今生の別れと京山の消息を病中のつれ/゛\に取集め、牧原にさし図して冊を合綴し永く記念となす、児孫みだりに之を反故となす莫れ

この自叙によつて京山と牧之との交情がわかる。即ち前に記述した事実がこゝに簡単に裏書されてゐるやうなものである。


註:
・篆刻(てんこく): 木や石や金などに印を彫ること。篆書体で書かれることから。
・魚雁(ぎょがん): 手紙のこと。(鯉素) 鯉の腹から白絹の手紙が出てきた故事と、(雁書) 匈奴に捕らえられた蘇武が雁の脚に手紙を結んで都に伝えたという故事による。

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