2013年7月30日火曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 20.京山と其家庭

   二○ 京山と其家庭

 ついでながら京山に就てもう少し録して置かう。それは雪譜のことに関係する以外、しばしばの往復に京山が其書簡中に現はしてゐる事実で稍々趣味ありと思ふ京山の身の上に就てゞある。京山は牧之と同甲で、四十年交つたといふ、その交情は友人といふよりは寧ろ親戚の味ひがある。従つて書簡のはしには必ず互に親族合ひの事迄も叙するのが常であつて、それによつて両者家庭の事もおのづから窺はれる。

 京山には三四人の娘があつて、三人いづれも諸侯に仕へてゐた。中にも二人の娘は長州侯に召されて、その中の一人はお妾になつて二人の子まで挙げて居る。そしてその娘は侯から京(きやう)といふ名を与へられて居た。その妹も亦長州侯に仕へて居る事実が京山の書状中に見えて居る。この事について牧之は例の「児孫に示す」の序文の終りに付記して居る事があるから、それをこゝに抄録して見る。
京山、余と同齢ながら白髪なく眼明かに上下の歯鮮か也云云、又序にいふ、京山娘五人の内両人踊り上手にて長州侯 (萩の城主松平大膳大夫)に御覧に入れ候処、御満悦の上両人共に奉公に参上候様 (荏土(えど)の踊は芝居也) 仰せあり、山東答に、賎き者の娘、第一仕付が大金故力不及と申すを、奥女中より、物入りは此方にて致すとの事につき差上る、間もなく一女は中老に立身、殿様よりお京と名を賜はり寵遇渥く、後には御部屋となり、姫君翌年若君誕生、斯くなれば親元より願出れば親元へ三百石被下家例なれども山東願出ず、併し山東部屋へ出れば羽振よしとの事、妹は若君御膳番と申す事、実に女は氏なくして玉輿にのると是等をいはむ
京山の書簡にも、文政十二年如月二十二日付の分に、その娘を萩に遣はした事が一寸書いてある。
去年卯月十六日、娘二人、松平大膳様御供にて三百里外の旅路を長門之萩に発足、いまだ年行かぬ者共故一ケ年之在勤心元なく、妻をも番頭お乳の人に付てつかはし、跡は男ぐらし之私並伜両人、おろかなる手代小者など、味噌桶之世話までいたし、男やもめ之うぢうぢくらし居り、殊之外繁雑云云、妻並娘も所々見物いたし、当春三月二十四日めでたく帰着いたし候へ共、娘共はもとより桜田御屋敷に罷在り、焼原よりは帰り不申、今に男ぐらしいたし居り申候
これで娘の消息が分る。全体世間には山東京伝、京山をいろ/\研究する人があつて、此両人は殿様の落胤だなどゝいふ説もある。其真否は知らないが、さう思はるゝ節は満更無いでもない。考証家の説は姑く措いて、若し或人のいふが如く落胤であるとすれば、京山の女(むすめ)が多く諸侯に仕へて居る点からいふと妾因妾果ともいふべきものがあるやうにも思はれる。流石に京山は学問があつた丈けに、牧之の自叙伝文にもあるが如く自分の娘の故を以て三百石の扶持を受ける事はしなかつた。それは京山の見識として認めねばなるまい。
 又文政十二年九月の書状中に、総領娘の事をいうて居る。この総領娘も亦大名へ行つてゐるのであるが、これは萩に行つて居るのとは違ふ。その書簡には、
私は惣領娘お増とて二十三歳、当時松平大和守様え老中をつとめ居、伜京屋伝蔵二十一歳、次にお京とて十八歳、次に今とて十六歳、此両人は松平大膳様へ御奉公いたし、京は殿様若年寄つとめ居候、末之男子は京水にて梅作と申候
というて居る。これによると総領娘の次に長男、其次に娘二人、末が男子の五人の子供の内、娘三人までが諸侯の奥づとめをして居たのである。京山は尚ほ自分の子供に対する家庭の実況について写実的に興味のある光景を左の如く云うて居る。
親の子に於ける、胡蝶が菊を作る楼のものにて、苗より種々丹精いたし、花の頃は己が胡蝶故、いつか老にのぞみ申候、伜未だ独身にて近来花柳に狂ひ出し大に散在致し候、依つて未だ家事を許し難く、私浪人にて刀を差し候へ共士商の片身がはりにて、机の上に帳面をひらき燈下に十露盤をならすかと思へば編筆に拙詞を連ね、印をほるかと見れば製薬を丸め、袴をぬけば前だれを結び、田舎芝居の由良之助、五段六段の狂言綺語、世話しき中に釜をかけて松風を楽しみ申す事驕奢にあらず、茶禅に気を養ひし迄に御座候

此書状もなか/\趣のある書きぶりで、彼れの日常や家庭の模様が簡単に叙されて居る。即ち武士かと思へば町人、戯作者かと思へば茶人、やはらかいもの許り書くかと思へば印刀を取つて篆字を刻する、その目まぐらしいやうな生活が如実に描き出されて居る。


註:
・同甲(どうこう): 同じ年齢
・荏土(えど): 江戸 荏は、エゴマという植物。
・片身(かたみ): 身体の半分
・十露盤(そろばん)
・松風(まつかぜ)(しょうふう): 茶の湯で、釜の湯がぐらぐらたぎる音。

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