2013年7月25日木曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 09.馬琴と京山の疎隔

   九 馬琴と京山の疎隔

 前項の書状の末段には馬琴もいよ/\承諾して、京山へも其旨を申越して来たといふので、京山は案ずる程でもなく甚だ好結果であつたと喜んで居るが、こゝに聊か馬琴と京山との間柄に就て書く必要がある。全体誰も知る如く馬琴は文壇に雷名を博した人であるが、実は京山の亡兄京伝を師として戯作の修業をしたものである。馬琴は京山よりも年長であるから、云はゞ先輩の地位ではあるが、併し自分の師の弟たる京山に対しては、馬琴と雖もそこには多少義理もなければならぬ筈である。年始、中元などの季節には互に往来もしなければならぬわけであるのに、此二人は殆んど呉越も啻ならぬ程に疎遠で、馬琴は曾て一度も師家なる京山を訪ねたこともなければ、京山も亦馬琴の消息は牧之の書簡によつて始めて知る位であつた。これは馬琴の傲岸なる気質が因をなしてゐるに外ならぬのであるが、是非の判断は他に譲つて兎も角二人は甚だ相和さなかつた。之に対して律儀なる牧之は頗る面白からず思ひ、書簡のついでには京山に向つて「忍」の一字を説いてゐた。話がつい岐路に入つた形であるが、問題の雪譜がいよいよ馬琴の手から離れて京山に移つたについては、牧之は益々此両者間の疎遠を解きたいと考へて、どうか是非馬琴と往来して貰ひたいと京山に向つて切に勧めた。牧之の書簡に答へた京山は、此事について左の如く云うてゐる。
 
馬琴へしたしみを結び私罷越、翁が起居をも尋ね候様にと御心ぞへ被下ありがたく、呉越の如く更に音信も聞き不申候故に眼病の由も尊翁御書中にて始めて存じ申候、著作堂と申す人、腰はぬけるとも右の手さへ自在ならば机上に黄金を耕し可申候へ共、眼病とはさてさて気の毒千万也、何れ尊意に任せ近日わざ/\御尋ね可申候

馬琴の眼病といふことは江戸に居る著作者仲間では唯一人知らぬものはない位であるのに、それすら京山は知らずに居て、牧之の書信で始めて知つたといふ事から考へても、その疎遠の程度がわかる。この一齣は天保六年と思はるゝ正月二十四日付の書簡に詳しく書かれてある。

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