2013年7月27日土曜日

随筆春城六種 北越雪譜の出版さるゝまで 12.書名漸く定まる

   一二 書名漸く定まる

同じ天保六年五月の書簡中に曰く、

つら/\おもふに、此度雪篇の一挙、尊翁画を能し給ふ故、図あり説ありて成れる也、余幸にこれに与りてその全をなせり、一度梓に上りては海内に布き候て不巧にも伝ふべし、拙文の代筆に尊名を穢すと雖も、天幸を得て世に行はれたる翁が名を他国に雷同せん事、我に於て雀躍に不堪候、翁が来年の御望み一時に成就せん事、良縁の時を得たるに在り、可賀/\一昨日(五月二十日)書肆文溪堂の番頭嘉七と申者訪ひ来り、雪上の巻、筆耕之交合持参申候、さて主人口上に、雪志之外題、相成るべき事ならば雪譜と申被成度、右は唱へもよろしく、且亦先達而中より京、大坂、名古屋本屋共へも此度雪譜と申すものほり立て、やがてうり出し候噂も申つかはしおき候、その返事に雪譜/\と申越し、或は又馬琴著述の末にも此名見申候ゆゑ、他国本屋共も雪譜方請よろしく故、なるべき事ならば雪譜にいたし度、それも先生思召次第と申候ゆゑ、私言下此答へに譜も志も字意は遠からず、志とする所以は馬琴が題したるがいやさ故也、これは此方のまけ惜み也、馬琴が一笑は滄海の一粟也、譜とすべし/\と答へ申候、此段左様に思召被下度候、さて此嘉七へ酒肴をもてなし、しばらく物語の内に、雪譜はいつ之頃よりうり出しに成るべきやと尋ね候へば、嘉七曰く色々ほり立て候物御座候故、先づ五月金と存候と申候、此の五月金とは来春にうり出して五月払をとる事を云ふ也、これは仲間同志の通言なれ共、京山は作者故、仲間の通言を以て答へし也、来春出版大当りを願ふ、可賀/\嘉七が言ばを聞いてうれしく、即興

  ほり上て積み重ぬべき雪の巻消ぬ言ばをたのみこそす

前に掲げた書簡中にもある如く、百里から離れた遠隔の土地で互い見もせぬ人が幾んど江戸に於ては想像のつかぬ大雪の本を書く。それがともかく纏まるやうになつたといふのも、畢竟京山と牧之との間に種々微細に亘つて文書の往復があり、或は京山から質問して来た草稿を牧之が見てこれは斯うありたい、こゝは間違ひであると一々訂正したりして、種々なる面倒を繰返した其労苦の大なるに因ることゝ思ふ。随つて其文書は何時も数十枚に亘つた細書である。又同じ書簡中にある如く、抑も雪譜のまとまつた所以は、主として牧之といふ人に画才のあつたことが関係をもつてゐる。

粗雑ながらも文筆の及ばぬ所を画で写すといふことが、詰り雪譜成功の基で、それは京山の言の如くである。又その表題については、京山は或は雪話とつけ、或は友人に相談して雪志と改めもしたりしたが、遂にそれを雪譜と名くるに至つたのである。前にも書いたやうに、馬琴は牧之から著作を託されて、遂にそれを果さなかつたが、併し雪譜の命名者で、此名を弘めるには大功があつた。最初表題を雪譜などがよからうと言ひ出したのは馬琴で、自然に其名が定まつた上に、馬琴の著はした随筆「玄同放言」の終りに、まだ筆を執らないこの雪の話を「北越雪譜」として広告もしてある。こんな事から諸方の書肆仲間或は読者の間にも其名が知られてゐたので、本屋から雪譜々々と迫られに至つたのは無理もない。

多分京山自身も其位の事は承知してゐたであらう。其書簡にもある如く馬琴の跡を踏まない様にといふことで、志とか話とか付けたのであるが、それが遂には馬琴の定めた名に戻つて、其名で出版された顛末は、前掲書簡の言うて居る通りである。






註:
海内 (かいだい): 天下。
通言 (つうげん): 一般に使われている言葉。

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